紗彩


 しまった、と黒子は心の中だけで呟いた。限りなく困惑に近い溜息が漏れかかるのも気合で堪える。
 図書室からの帰り道。秋晴れという語が相応しい天気の良さと、渡り廊下を通るよりも近道となる利点に惹かれて、中庭を突っ切ったのが運の尽きだった。
 普段だったら誰もいないこの場所が、校内に幾つか存在する告白スポットの一つ――と黒子が知るのは、実は結構先の話なのだが、とにかくそれらしき光景にうっかりと遭遇してしまったのである。
 大抵こういった面倒な場面に居合わせるのは、黒子の運というよりも、彼の影の薄さが問題なのである。
 そこに居ると認識されないが故に、内緒話や秘密のやりとりが黒子の周囲で繰り広げられることが多い。おかげで気配を殺しつつ逃亡する方法や、こっそり身を潜める技術が上手くなってしまった。
 正直、こんなことに精通などしたくない。どうせならシュートの成功率が百パーセントになる方がずっと嬉しいです、などと現実逃避したくもなる。
(しかし困りました)
 図らずも得手となってしまったアレコレを活かしてさっくり逃げ出したいところなのだが、今回ばかりは非常にまずい。
 黒子の耳に届く女子生徒の声は聞き覚えがない。同学年全員を知る訳ではないが、多分二年生だろう。だから万が一、うっかり見つかったところで適当に誤魔化して逃げても正体不明のままで終わるだろうが、問題は彼女が話しかけている相手なのである。
「ところで伊月君」
「なに?」
 木々の合間から漏れる陽射しへ眩しげに片手を翳しながら、気安い口調で応じる相手は、黒子がとてもよく知っている人物なのだ。
 伊月俊。
 誠凛バスケ部の二年生で、部内一モテるという噂の先輩である。その証明とも言えるような光景が、今まさに黒子の眼前で繰り広げられている訳なのだが、そんな甘ったるい風景はどうでもいい。そこにいるのが『彼であること』そのものが、黒子の逃亡劇を困難にしている。
 伊月は鷲の目――他者よりも広い視野と、自由自在に視点を脳内で切り替えて『見る』ことができる能力を有している。
 バスケ部では、冗談交じりに黒子回収担当などと揶揄されているが、そんな呼び名が付けられるくらいには、影の薄い黒子のことを見失わない。それどころか、声を掛けられて初めて気付く黒子のことを誰よりも早く知覚するような人でもある。
 だからこそ、どれだけ気配を押さえてもここに黒子がいることを気付かれてしまっている可能性が高い。いや、既に黒子が隠れていることを分かった上で、のんびりと会話を続けているような節さえある。
(あああ……もう本当に、最悪のタイミングです)
 再び漏れそうになる溜息を、黒子は片手を口元に宛がって抑え込んだ。